内ヶ崎作三郎記念館について

内ヶ崎作三郎 写真

富谷の偉人
内ヶ崎作三郎

明治維新の激動の中産声を上げた作三郎

作三郎は明治10年4月8日に、しんまちの内ヶ崎醤油屋の長男として誕生しました。内ヶ崎家は、しんまちに宿場を開設し、肝煎を務めた内ヶ崎織部の末裔です。内ヶ崎醤油屋は、本陣でもあった内ヶ崎酒造店の真向かいに店を構えていました。その跡地にオープンするのが、とみやどです。作三郎が暮らした母屋をリノベーションした建物は、内ヶ崎作三郎記念館として開館します。

作三郎を知る上で重要な鍵となるのは、内ヶ崎家が担ってきた役割です。宿場を司る肝煎というのは、世話役のようなもので、人々の暮らしを守り、宿場を繁栄に導く指導者です。宿場の運営に心を配り、問題を解決するために奔走するのが使命でした。

作三郎が生まれた明治10年は、江戸幕府から明治政府に政権が変わった動乱の時期で、西郷隆盛による西南戦争が勃発した年でした。
明治政府は、欧米列強と対等になろうと、富国強兵や殖産興業、文明開化など、西洋式に倣った改革を断行していました。こうした環境も作三郎の視野を広げ、生き方の基盤形成に大きく影響したと考えられます。日本という国が、まさに生まれ変わろうとする激動のさなかに、作三郎は生まれ、成長していきます。

富谷初等小学校に入学 読書が好きな少年に

寺子屋しかなかった富谷村にも、明治6年に富谷初等小学校が開校され、作三郎も初等科に入学。3年間の初等教育を終えると、中等科に進学。この頃はまだ教育制度が発足したばかりで、都市部に比べて郡部は整備が遅れ、十分とはいえない教育だったと推測されます。

小学校時代の作三郎は、読書を好む少年で、作三郎と署名された本が今も残されています。学業にも秀で、初等科全科で優等という証書が授与されています。

東二番丁小学校高等科へ 志を胸に親元を巣立つ

中等科を終えて12歳になった作三郎に転機が訪れます。当時の小学校には、大学への道として、現在の中学校にあたる高等科が設置されていました。しかし、富谷小学校に高等科が設置されるのは後年のこと。進学するなら家を離れ、仙台に行かなければなりませんでした。

作三郎の回想記を調べると、「(東二番丁小学校高等科へ転入した)12歳から4年間、佐藤運宜氏に師事。身を寄せて直接教授を受けた恩人」と記しています。佐藤運宜は作三郎の叔父である内ヶ崎米吉と関わりがあることから、米吉が親に勧めて仙台に出したのではないかと推測されています。

各地から秀才が集う高等科でも、作三郎は学力優等の卒業証を得ています。

第二高等中学校入学 人生を開く出会い重ねる

第二高等中学校は、全国に7校設置された官立の学校で、作三郎が在学中に第二高等学校と改称されています。東京帝国大学進学の予備教育を施す大学予科を経て、21歳で卒業するまでの6年間に、作三郎のその後の人生を決定づける、大きな出来事や出会いがありました。

19歳の秋に、学友の栗原基から、キリスト教宣教師のアニー・S・ブゼルが開くバイブル・クラスに誘われました。

この頃、すでにキリスト教の布教や信仰が許され、国を挙げて欧化政策が進められていたこともあり、欧米文化の中枢をなすキリスト教に、特に知識階級の間で関心が高まっていました。多くの宣教師が来日し、各地で布教活動を行いながら、教育事業や社会福祉事業を盛んに行っていました。アニー・S・ブゼルもその一人で、後に尚絅女学校の初代校長となる人物です。

ブゼルのバイブル・クラスは、第二高等学校の学生を対象に、毎週土曜日の夜に行われる聖書研究を目的とした会でした。通訳がいない英語による指導だったため、英語力も鍛えられたようです。作三郎はここで生涯の友となる吉野作造や島地雷夢、小山東助などと出会い、卒業するまでの2年間、熱心にキリスト教を学び、理解と信仰を深めていきました。作三郎と吉野作造、島地雷夢らは、明治31年7月に北一番丁浸礼教会で受洗しています。

彼らがキリスト教から受けた思想的影響は大きく、バイブル・クラスで学んだ学生たちは、後に牧師、学者、政治家などになり、大正デモクラシー運動を提唱した吉野作造に代表されるように、日本の近代化に影響を与える逸材となって活躍しました。

東京帝国大学に入学 小泉八雲に影響を受ける

東京帝国大学に合格した作三郎は、上京して東京帝国大学基督教青年会の寮に入り、キリスト教を中心とした生活を送りながら、東京小石川にあったバプテスト独立教会に通っていました。

東京帝国大学では英文科英文学を専攻。ここで小泉八雲の授業を受け、大きな影響を受けます。小泉八雲はギリシャ生まれの日本民俗学者で、日本の英語教育の最先端で尽力した人物です。「耳なし芳一」や「雪女」などの作品を収めた『怪談』などがよく知られています。

また小泉八雲は、文明開化と軍国主義で近代国家へと突き進む日本で、次第に忘れられていく迷信や神話など民族の魂のようなものへの探求を深め、日本の神観念を鋭いまなざしと情緒豊かな表現力で伝えた思想家でもあり、多くの学生に慕われた教授でした。作三郎もその一人だったようで、五感を研ぎ澄ませ、広く深く学究していく姿勢に、小泉八雲の影響を見ることができます。

日本の思想界で注目を集め 早稲田大学では講師に

24歳で東京帝国大学を卒業すると、英語講師として私立中学校などで教壇に立つ傍ら、後に同志社の総長となる海老名弾正の本郷教会で、吉野作造、鈴木文治などと雑誌『新人』を発行し、日本の思想界、キリスト教界の注目を集めました。

そして縁あって、キリスト教界の指導者であった平岩愃保の長女喜代と25歳で結婚。同年、早稲田大学講師となります。早稲田大学の記録によると、作三郎は英語・英文学の講師として嘱任されており、大学部のほか専門部、高等予科、高等師範部を担当。政治経済学科、法学科、商科、国語漢文科、歴史地理科などで教壇に立っていたようです。

マンチェスター学院に留学 最先端の教育機関で研さん

作三郎が英国オックスフォードにあるマンチェスター学院に留学したのは31歳のとき。3年間にわたり、キリスト教思想を中心とした西洋の近代思想を学びました。さらに留学中にヨーロッパ各地を訪れ、キリスト教文化への視野も広げていきました。

作三郎は、富谷の実家へ多くの手紙を書いており、留学中に、父作太郎などへ書き送った絵はがきや書簡が残されています。マンチェスター学院の記念写真では、大柄な英国人と肩を並べ胸を張る若き日の作三郎が写っています。

早稲田大学の記録では、帰国の2か月前に教授嘱任とあります。帰国後は、教授となって英文科や哲学科、倫理などを中心に講義を行っていました。
また、執筆活動にも精力的で、帰国直後の3年間で出版した著書・共著は11冊、発表論文は実に238本を数えます。
発表論文のうち、85本が『六合雑誌』から発表されています。『六合雑誌』は、キリスト教系の思想雑誌です。社会思想や社会問題について、進歩革新的な論説を掲載し、明治の世に影響を与えた刊行物です。作三郎は毎号のようにここで論文を発表し、社会から注目されていきます。

富谷から衆議院議員当選 理想の国づくりに奔走

大正時代には、国民の意思を反映した政党による政治を求める声が高まり、社会運動が盛んになっていきます。吉野作造は、民本主義を提唱し、この大正デモクラシー運動をリードしました。

こうした社会情勢の中で、労働者の地位向上を目指して友愛会を結成したのが鈴木文治です。作三郎も支援した友愛会は、後に日本の労働運動の中核になり、鈴木文治は日本の労働運動の草分けとなった人物。苦学して東京帝大法科で学び、先輩の吉野作造の活動を支えた社会運動家です。出身は栗原で、作三郎にとっては同郷の後輩にあたります。

作三郎は大正9年から1年ほどをかけて、欧米学術視察のため世界一周へ旅立ちます。世界のありさまを見聞するだけでなく、各国で開催された弁論会に出席し演説しています。

大正13年、作三郎は藩閥官僚政治に対抗して結成された憲政会から、宮城県より立候補し、衆議院議員に初当選しました。早稲田大学で講義を続けながら、政治家として地方巡回演説を行う多忙な日々を送ることになりました。

作三郎は、その後通算7回の当選を果たし、昭和14年には第1次近衛文麿内閣の文部政務次官となって、教育行政に力を注ぎました。昭和12年には立憲民政党幹事長、昭和16年には衆議院副議長として活躍。太平洋戦争が終戦を迎えたときに、衆議院議員であったため、昭和21年1月4日に公職追放となりました。

政治家として作三郎が強く主張してきたのは、婦人参政権や地方の教育問題、女性の地位向上などで、現在の寄付金付きはがきのルーツとなる愛国切手の発行にも尽力しました。

病床でも本を手放さず 走り続けた69年の生涯

晩年は胃がんを患い、半年にわたって東京大学病院坂口内科で入院生活を送ります。作三郎は読書ざんまいの日々を送っていたようで、枕元に山と積まれた本を自宅に届けさせると、妻の喜代が「また本か」と驚いたというエピソードがあります。少年の頃から読書好きだった作三郎は、東京の自宅に2万冊を超える蔵書があったそうです。身の回りの貴重品とともに富谷の実家に疎開させようとしましたが、途中で空襲にあって焼失。こうしたことがあって、作三郎の遺品はわずかに残されるのみとなりました。

昭和21年11月に東京大学病院坂口内科を退院し、自宅で療養生活を送ります。「あと幾年生き延びるかしれないが」と、余生への希望を持っていましたが、翌22年2月4日に、静かに69年の生涯を閉じました。

宗教家であり教育者でもあり、政治の世界で活躍した内ヶ崎作三郎。代表作となった『人生学』は、現代社会においても色あせることなく、多くの学びを私たちにもたらしてくれます。

日本の近代化に貢献した郷土の偉人、内ヶ崎作三郎の足跡は、「とみやど」内の内ヶ崎作三郎記念館や「とみぷら」2階の民俗ギャラリーで見ることができます。

基本情報

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〒981-3311 宮城県富谷市富谷新町111−1
TEL
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